生きがいを見出しづらい時代に生きがいを見出すために

資格で学部を選んだ弟が留年しました。

高学歴を取ったはずの友人が離職しました。

不安定な生き方をしている友人が楽しそう。

勉強は苦手でもいきいきと学ぶ子どもがいる。

何が正しい生き方なのか、分からない事例があまりにも多い。

だからこそ、せめて「生きがい」を持って生きていたい時代になったと感じます。

経済的に苦しくても、自分なりの美学のために生きる。

自分なりの目標があるから、日々の生活に張り合いがある。

そんな「生きがい」のある人生を送るために何ができるでしょうか。

僕の考えを書いていきます。

自分なりの感性を愛する

他者と比較して自分が劣っていると感じるとき、とても辛くなります。

効率が悪い自分。

継続ができない自分。

特定の作業しかできない自分。

ネガティブな自分像というのは、他者と比較して抱く劣等意識からつくられるものだと感じます。

歪みが大きく、出来ないことが多い自分に嫌気が差したとき、僕はアルコールインクアートに没頭するようになりました。

写真にあるように、抽象画を描くアート技法です。

自分がやると決めたことなのに何をやってもダメだという劣等感を抱いている時期がありました。

大学院に進学した23歳の僕は、

「日本の教育を変えるような偉大な発見をするぞ!」

と息巻いていたのです。

2年間で100ページの修士論文を書く。

それだけのミッションが言い渡されて、膨大な時間をポンと与えられたとき、僕の前には自由という名前の地獄が広がりました。

何をしてよいかわからなかったのです。

理想の生活はありました。

朝6時台に起床し、大学院に行って8時間ほど作業。

夜は夜で、自分の好きなことをする充実した日常。

現実の生活はちがいました。

いつになっても執筆の見通しを持つことができない。

とりあえずやれることをやろうと、本を開いて内容をまとめようとするものの、どの箇所に引用することになるかも分からないので何だか集中して読めない。

テキトーにメモしておいて、憂さを晴らすために友達と飲む。

次の日は、昼まで寝ている。

何日、何ヶ月、1年が経っても書き終わる見通しを持てず、それゆえに思い切り作業にも取り組めない状態が続きました。

言葉で表現したいという熱情は、遥か彼方に吹き飛ばされ、言葉への自信はとうの昔に失っていたかのような感覚でした。

ありのままの自分を肯定できなくなってしまったとき、インクアートが非常に魅力的に思えたのです。

もともと美術が好きだったからでしょう。

Instagramに流れてきたアルコールインクアート・ワークショップの広告を即座にクリックし、その場で予約しました。

上野で初めてインクアートに取り組んだときの感動を、今でも覚えています。

自分が抱いていたモヤモヤとした想いを深い青に乗せて、何度も何度もインクを伸ばしていきました。

アルコールインクアートは、極めて自由度の高いアート技法です。

やり方にも正解はないし、作品の美しさの定義も人によって異なる。

楽しむためには、他者の評価を気にせず、ただ自分の感性を大切にすることが重要です。

ただひたすらに「自分ってこうだな」という自分なりの美学を探究する。

2度と同じ作品をつくれないインクアートは「いま確実に自分が存在する」という確かな生存実感を与えてくれます。

今は、週に2回はアルコールインクアートのワークショップを開いており、僕自身も積極的に参加しています。

高邁な理想を抱く割には、達成への距離が遠い。

だからこそ、歪な自分の存在を丸ごと受け容れる時間が、僕には必要なのです。

自分なりの感性を愛する愁いと安らぎのひとときが。

誰かのために生きるという選択

今年の教え子に、惰性でMARCHに行った子と、どうしても日大に行きたくて落ちてしまった子がいます。

どちらの生き方を否定するわけでもない。そして、どんな綺麗事よりも、客観的な成果を出すことが大切という理屈もわかります。

わかったうえで、僕は後者の子どもの方が将来「生きがい」を持って生きられると予想しています。

中学2年生。どこの塾に合わず「とことん向き合う。最後まで。」というフレーズを掲げる僕らの塾に、藁にもすがる思いで足を運んでくれたのが、彼と出会うきっかけでした。

定期テストが始まる2週間ほど前だったので「何が範囲なの?」と聞くと「……わかりません」と答える彼。

「学校の授業はあまり入ってこないのかな?」と僕が尋ねると、「学校の授業は聞いているけれど、どんな単元をやっているかはわからない」という趣旨のこと話します。

今まではどのような勉強をしてきたかを聞いても、なんだか判然としないことを語る彼からは、物事を整理して理解する力が乏しいのだろうなという印象を受けました。

ただ、彼の面白いところは「周りのために何かしてやろう」という意識を強く持ち合わせているところです。

いくつかエピソードはありますが、顕著なものに体育祭の応援団長になった話があります。

「応援することなら僕もできる」という精神で、中学3年生のときに体育祭の応援団長に立候補。

体育祭を盛り上げようと意気込み、予行練習のタイヤ転がしでスピ―ドを出しすぎて転倒。

肩の間接を外してしまい、体育祭当日は右手を三角巾で固定されたまま挑んだという話です。

冷ややかに物事を見る人は「張り切りすぎるから、そんなことになるんだよ」と思うのでしょうか。

僕の目には、不器用でも他者のために盛り上げてやろうというガッツが滲み出ているこのエピソードが、とても輝いて見えるのです。

中学2年生当初は、正直あまりに何を言っているか分からない彼でしたが、日々の対話と課すようにしていた読書によって得た語彙力によって、だんだんとゆたかに語れるようになっていきました。

中学3年生の初夏になると、自ずと話題は進路の話になります。

システムエンジニアや警察官、教員など具体例はそのときどきによって異なっていましたが、彼が進路を選ぶうえで一貫していたのは「自分ができることで誰かのために生きたい」ということでした。

文系か理系かも定かではないということで、学部の幅が広い日本大学を勧め、結果それが彼の理想と合致し、日大が第一志望で受験に臨むことになりました。

結果は振るわなかったけれど、不合格の烙印を押されてなお、彼は前向きに語ります。

「僕は、何をすれば良いかわからなかったから勉強する意味もわからなかった。だから、勉強を始めるのも遅かった。でも今は、誰かのために生きたいと願うのならば、何かを究めなくてはいけないことは分かる。だから勉強しようと思います。」

能力が高ければ、大きなスケールで社会に関わることができる。

一方で、能力が高くなくても、身近な範囲で影響を与えることはできる。

彼に渡した本の中に『コンビニ人間』という本があります。

そして、読了した彼に僕はこういったことを話しました。

「コンビニで働いていることに劣等感を抱く必要はない。大切なのは仕事の名前じゃなくて、どのように働くかだと思うよ。そのコンビニがもっともっと素敵な場所になるために何ができるかを考える。そういう働き方をしていれば、素敵な仕事に様変わりすると思うんだ。」

生きがい至上主義だとしても、僕は、

最近、学歴と職業に対する見方が大きく変わりました。

お金になるという理由でコンサルを選び「クライアントが頭悪い」と話す友人よりも、「〇〇さんのためにはこうした方が良いと思った」とたくさんの人を思いやる看護師の友人の語りの方が魅力的だったんです。

他にも、「お客さんが快適に過ごせるように」とインパネの上に水を乗せて走る練習をしているタクシー運転手や、「住む人を想って〇〇を工夫している」と語る大工の方がよっぽど魅力的です。

僕はいま、塾講師をしています。

別に僕が務めなくても代わりはいくらでもいるような平凡な仕事かもしれません。

ところが、2つの理由から、そんな寂しい捉え方はしていません。

1つは、目の前の子どもたちのために、僕だけにしかできないアプローチを常に考えているから。

もう1つは、集客から授業のカリキュラムも全て自分で考えなくてはならない道程を辿ることで、将来の夢に役立つと確信しているからです。

僕には、コワーキングスペース・書店・カウンセリングルーム・アートワークショップ・オルタナティブスクールが同居した「複合文化施設」をつくるという夢があります。

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いくつになっても夢は大きく——将来の展望 将来の夢を言語化しました。 「考えることを支える」というビジョンを掲げる支考社の目指す先を提示することで、自分のやることを先鋭化するとともに、同じ方向を向いてくれる仲間・応援してくれる人が増えることを願って、言葉を綴りました。 ご覧いただけますと幸いです。

夢が大きすぎるから叶わないかもしれないと思っている自分もいます。

でも、この目標があるからこそ、張り合いのある日常へと変容しているのです。

他者から見たらレディメイドな生き方に見えたとしても、

自分としては「オーダーメイド」な生き様を追ってほしい。

生きがい至上主義すぎる。

もっと現実を見て生きた方が良い。

そういう意見も、よく分かる。

生きがいと現実性の両立ができたら良い。

実際、最近の僕は両立を目指して生きている。

でも、どちらをより重視するかと聞かれたら、やっぱり僕は、生きがいなんですよね。

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この記事を書いた人

支考社 代表

門野坂翔太(かどのさか しょうた)

東京学芸大学・教育学研究科修了。教職修士(専門職)。
中学校・高等学校専修免許状(社会・地理歴史・公民)。

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