好きなことを仕事にすると、だいたい2つのことが起きます。
1つは、生活が成り立つかを考え始めること。
もう1つは、「好き」が多少ゆがむこと。
⇩以下は、雪合戦のような「無料の面白さ」から、塾の集客のような「資本の論理」まで、振れ幅の大きいエピソードが並びます。この振れ幅こそが、公共性と資本主義の狭間で「好き」を仕事として続ける難しさであり、同時に希望でもあるわけです。具体例を通して、両者を「分けて持つ」感覚を言語化していきます。
高校時代のクラスメイトと先生を訪ねて山形へ
27歳、本気の雪合戦
2025年2月、定年を迎えた高校の担任に会うため、同級生たちと山形旅行に行きました。東京駅に9時に集まって、新幹線で移動。修学旅行みたいなウキウキした気分が蘇ります。山形駅に着くと、まずは蔵王温泉スキー場へ向かいます。目的はスノボではなく、樹氷の観覧です。ググっていただくと分かるのですが、風と雪が何度も重なり、長い時間をかけて白く変容していった木々には、人の手では決して生み出せない荘厳さがある、気がします……。その日は、風が強すぎて外の様子があまりよく見れなかったんですよねえ。
まあまあな金額を払い、ゴンドラで山頂を目指したものの、途中の景色も頂上の景色も、結局は楽しむことが出来ずじまいでした。大行列に並び、4時間もの間、自由を与えられなかったにも関わらず、用意された景色も見れなかったので、なんだか疲れて宿に向かいました。バイキングを食べ、風呂に入り、部屋に戻ってくると、状況は好転します。酒を飲みながらワイワイ話し、酔った勢いでラップバトル。気づいたら朝の3時になっていました。……それでは終わらない!今度は、和室の机を中央に移動させ、小さな机をみんなでぐるりと囲います。トランプを配り、1番大きな数を出した人が、1番小さな数を出した人にNGナシの質問トーク。朝の6時まで、今度は深い語り合いの時間となりました。
大した睡眠時間もないまま、朝風呂と食事を済ませてチェックアウト。いよいよ担任の先生に会うために、山形駅に向かいます。先生との約束まで、1時間近いスキマ時間があり、どのように過ごすかアテもない中で、駅前を散歩していると、山形城跡公園に到着します。城「跡」と名前がついているだけあって、ここに城があったのだろうと想像することができる広大な土地のみがある公園です。どうしようかと考えながら、一行は関東ではなかなか見られない雪へと吸い寄せられていきます。あっという間に、雪玉の投げ合いが始まりました。最初は、靴を気にして入らなかった女子たちも、雪玉を投げられ、グっとパーでチーム分けをすると、おや!?ようすが……!信じられない形相で駆け寄ってくると、肩のうしろでためをつくりつつ、細かなステップで速度をボールへの推進力へ変え、ダイナミックな投球。ジャイロ回転のかかった雪玉に膝を仕留められ、そうそうにアウトになった僕は、みんなの様子を実況しながら動画を撮ります。本気の雪合戦を繰り広げた僕らは、息を弾ませながら先生と約束した居酒屋へと向かいました。現状報告と、昔の話が折り重なり、とても楽しい同窓会でした。
結局のところ、僕らは何もないところで話して、動いていただけです。お金をかけて乗ったゴンドラには、ほとんど楽しみを見出せなかったものの、ただ話し、何もない公園で走り回っただけで存分に楽しみを見出すことができたわけです。想像力と日常を楽しもうとする態度の賜物だろうなと思います。合唱祭も優勝。学級日誌でも長文を書き合えるクラスでしたが、これらの行為には、別にお金がかかっているわけではない。ただ、誰かと共同しなくてはならない物事に対して、いかにして楽しむか、どうやったら楽しめるかという思考を巡らせて実行していたに過ぎないのです。
僕は、広場があるだけで特に何もない近所の公園が大好きです。何もない空間があるだけの塾の大教室も。僕は、最高の高校時代を送れたからこそ、塾の子どもたちにも高校は楽しいと声を大にして言いたい。そして、楽しい環境というのは、自分が楽しもうと周りに関わり働きかけ続けることで、進んでいった先の世界で、同志に巡り合うという方法に1番再現性がある。与えられたみんなと楽しむにはどうすればいいかを考え続ける。その先で出会える仲間というのは、きっと君と同じように考えている人だと僕は思います。
メインで取り組んでいる私塾のこと
ワーカホリックでレインボー労働
我ながら、よく働いていると思います。世間の言葉で言うとブラック労働だと思いますが、主観的には「レインボー労働」とでも名付けたいですよね。だからなのか昔から、黒歴史という言葉が嫌いなんですよ。僕の人生って目立つというか、変なことしているから黒歴史とか言われがちですが、終わってみれば全て良い経験になっていて、黒だと感じたことがない。……いったん話を戻しますね。
自分の塾がある。自分の中で「もっとこうしたら面白い」「もっとこう話したら分かりやすい」「もっとこの部分は柔軟に対応した方が子どものためになる」ということばかりを考えてきました。ほぼ2人で回している塾ですから、自分の裁量で細部まですべて創意工夫することが出来る。
そういう自分の感性・人柄・熱量を評価してくれて、塾に通わせてくれる保護者の方が増えている。本当に有難い状況です。
2025年の振り返りを書いている冬期講習中の現在は、午前はHP作成・広告戦略・説明会資料・ブログ執筆。午後からは、怒涛の授業に向けた準備。そして夜は自分が別個にやりたい事業の対応。年末は12/31まで。年始は1/2から。ハード。ハードで、でもあまりにも楽しい。
夏期・読書感想文講座を開いちゃった!
2025年に挑戦してよかったことのひとつは「夏期・読書感想文講座」を開けたことですね。普段から、作文を教えているのですが、受験のためではない文章講座を開きたいと思っていました。この読書感想文講座は、自分の願いのひとつの現れですね。自分の願いに共感してくれる方々に足を運んでいただけて、幸せな時間になりました。
前半3日・後半3日の合計6日程での開催でした。最初の3日程は、ひたすら小説を楽しむことと、小説のメッセージを読み解くことに焦点化する。O.ヘンリー『最後の一葉』・宮沢賢治『銀河鉄道の夜』・トルストイ『人は何によって生きるのか』が前半日程で紹介した主な本です。
後半の日程は、オリジナルワークシートを用いながら、自分が選んだ本の考察に徹します。エンデ『モモ』・雨穴『変な家』・有吉佐和子『青い壺』・野坂昭如『火垂るの墓』・宮沢賢治『よだかの星』・ユゴー『レ・ミゼラブル』・ロビンソン『思い出のマーニー』が参加してくれた小学生7名のチョイスになります。
読書とは「自分との出会い」です。現代だからこそ、いっそう自分の感性のために読書をすることが大切なのだと僕は思います。生成AIが台頭する時代になりました。単発的な知識を尋ねれば、即座に答えが出ます。なんならある一定水準の作業だって、指示を出せば代替して行ってくれます。
読書の価値を大きく二分するとすれば、一つは知識の補充。もう一つは「別世界で感性を磨くこと」だと考えます。モモのいる街が、窮屈な価値観に変容していく。雨宮が見た、特殊な環境を追体験する。青い壺とともに、日本の家庭に踏み込んでみる。かつての戦争の現実を、清太から学ぶ。追い込まれていく夜鷹を、祈るように見守る。ジャンは「正しい人」になれたのだろうか。マーニーの孤独は、何が和らげてくれたのだろうか。国も時代も価値観も、全く別の場所へ行く。そのことでしか知り得ない自分の感性があるのです。
感性は、人によって全く異なります。同じクラスにいたって、振る舞いが異なるのだから当然のことです。本を通して、別世界を経験し、心を揺さぶることで「自分とはどういう人か」を深めていく。深い自己理解が、困難なときや大きな決断を迫られるときにどれほど力を発揮するか。僕は、短い人生ながらも強く実感してきました。人工知能が台頭し、転職が当然となってきた時代。価値観は大きく揺らぎ、自身が納得できる正解をその都度、導き出さなくてはいけなくなるでしょう。そのとき、読書を通じて得た深い自己理解は、より納得のいく判断をする一助となるはずです。あなたが<あなた>として、素敵な人生を送れますように。

人数を爆増させたWEBマーケ
大学院時代から人数が横ばいだった塾の人数を一気に押し上げてくれたのは、WEBマーケティングの知見でした。3人の前で授業をしようが、10人の前で授業をしようが、授業に対する労力自体は変わらない。むしろ、対話型の授業を好む僕にとっては、複数の視点が飛び交うようになるという意味では、授業の人数が増える方が深みが出るという側面もある。
僕自身は変わらない。面白く在りたいと願いながら、日々を生きていく。ところが、ただ人間が存在しているだけで世間は振り向いてくれない。WEB上にどのような自分を見せていくか、どのような言葉で検索したときに自分と出会うようにデザインするかで、流入数は大きく変わる。せっかくですから、もう少し具体的に書いてみましょうかね。
川崎学舎は、ちょうど1年前からYouTubeを始め、少人数制であるという塾の特徴、僕らがターゲットにしている学校の解説、面白いと思う問題の紹介。そして、僕らが信じる教育の在り方を語ってきました。川崎の他塾と比較し、どのような学力層をターゲットにすればいいかを見直し、講座の名前を変更。さらに、HPをドメインからガラりと変え、デザイン性もかなり向上させました。この1年間で生徒数は1.7倍になり、残りの定員もわずかという状況です。この一連のプロセスを一般化するために、カタカナと英語しかないWEBマーケティングというイカした(?)言葉の理解に、時間をかなり振りましたね。知識が判断を変更するのだなと実感するくらい、次から次に広告戦略が思いつきます。さて、普通はこの思考に至るというのが社会人なのでしょうが、不器用な僕はもう一歩踏み込んで悩んでみたいと思います。
これらの思考に至る中で、僕が怖いなと感じたのは「自分が妄想した人間が目の前に現れること」です。多分、普通のマーケターならば、狙った顧客にアプローチできているということで、それは成功と捉えるはずです。まず、僕は自分にとって都合の良い人間を育てたいから教育がしたかったわけではないと思い直します。なぜなら、家族や先生にとって、僕はかなり異質な存在だったからです。自分が教育を志した理由のひとつには、多様な各人の価値観それ自体を受容しつつ、どのように生きていくかを考えていく人になりたいと思ったからです。
ターゲットを絞った方が、人が増える。一方、同質性も高まる。学力差が狭まる。普通の塾なら、教えやすくなるという利点に目が向く。ところが、僕はそうは思わない残念で面倒くさい人間です。今年の後半には、定員いっぱいだからとキャンセルする人も増えた。その中には、人数が少なくて子どもと向き合う時間が山ほどあった時代なら、もしかしたら大きく価値観を揺るがせたかもしれないと思う子もいた。
何もかもが上手くいくとは思わない。しかし、この推移が続いてくれさえすれば、川崎学舎は選抜制の塾になるし、学力の高い塾になれるはず。多くの人は、それを望むはずなのに、僕の心の奥底ではためらいが残るのです……
成功で片づければいいものを……
自分の中には「公共マインド」たるものがOSとして組み込まれていて「みんなで楽しく生きるにはどうすればいいか」ということを熱狂的に考えたい人なんですよね。大学時代にやった簡易的な性格診断では、適性職業第1位が僧侶だったことを思い出します。無自覚でしたが、最近はマンモス公立中学出身で良かったと思えるようになりました。
だからこそ、直前のセクションで書いたようなわけわからない悩みが生まれるんですよね。塾に通ってくれる子が増えた(ピース)で良いところを、さらにうだうだと考えてしまう。まあ、現状で考えていることは次の3点ですかね。
①受験進学指導を経済の基盤に据えながら出来ることをやる。まず、これが現実的な解決方法ですね。川崎学舎は、現状の成長を期待しつつ安定させ、そのうえで教育的に意義があると思う別の事業もする。コレは、今年読んだ山口周さん『人生の経営戦略』での「資本のためにやることと、社会貢献のためにやることを分ければ?」という提案と、マルクスガブリエルさん『わかりあえない他者と生きる』での「倫理資本主義になりますように」という願いの両者に影響を受けた考え方です。
②今は塾の事業に全振りして、得た資本を次の慈善事業に回す。将来に先送りするスタンスですね。大学院まで出てベンチャー行くとか言ったら家族に大変怒られまして、その理由が「おまえが言っていることに具体性がない」ということでしたが、本当にその通り。「……対話を通じて、子どもたちの価値観の変容を促すという教育が必要だと思っていて、でも今の学校では出来るか怪しいから、新規で事業が必要でぇぇ」みたいなことを親の前で言っていた24歳の僕を思い出します。結局、親が言うような具体的な事業に振ってから、資本主義社会ではやりやすくなったわけで、ある意味では大人として真っ当な指摘なわけですよね。うーん。
③僕自身の認識を変更してやることを続行。変更しないというパターンですね。いや、これは大変面白いとも逃げとも言える考え方です。僕は、当初「受験」という言葉をかなり毛嫌いしていたのですが、次の2つの理由から悪くないなと思う部分も見出せるようになってきたんですよ。1つ目は、受験スタイルにも随分たくさんのことがあるということ。例えば、いま見ている公立中高一貫校は、作文での受験となります。小学6年生は、毎日毎日400文字の作文を書きます。僕が理想とする教育のひとつの在り方ではあるんですよね。型通りの文章を書くレベル感から離れ、様々な条件やテーマで多彩な文章を書く子どもたちは、物事を考える力に長けていて、話していて本当に面白い。僕が教育で実現したかった、対話を通じて物事を深く考えるということが、作文というツールを通じて実現しつつあるわけです。2つ目は、受験は多くの人にとっては頑張るきっかけになるということです。僕は、昔からテスト・成績・資格が大嫌いな人間だったんですね。結構、小学生時代は読書家だったんですよ。読書を通じていろいろな世界に知ることが楽しかった。でも、中高に上がり、知ることの意味合いが楽しみではなく、数値化されるテストのためであり、そこから逆算して学ぶべき知識が規定されることに嫌気が差して本当に何も手つかずになってしまった。で、こういう人間というのはかなり珍しいということを最近ようやく自覚しました。割合の問題ですが、多くの子どもたちは、最初は嫌だったとしても、結局は動機をテストの点でつくる傾向が高いようです。たまたま僕がへんちくりんな感性の持ち主だったがゆえに理解できなかっただけで、受験は頑張るきっかけになっているわけです。だから、受験を通じても、当初自分が想い描いていたやりたいことは実現できているんですよね……
公立学校の先生になれていたら、きっと与えられて子どもたちとの出会いを最善のものに変えるべく、奮闘する人生を送れていた気がする。資本主義サイドに来てしまったからこそ、自分が出会える人間を選定できるだなんていう妄想に陥ってしまっている気もするんですよね。資本主義を善悪で捉えるというよりは、そういう構造的な部分を冷静に捉え、どう乗り越えていくかを考えるべきですよね。自分、文学も哲学も好きですけど、世捨て人になりたいわけではないんで。資本主義的に上手くやることと、本当に善い教育を構想することを客観的に捉え、どのように分け、どのように組み合わせるのかの塩梅を考える。継続して考え続けたいテーマです。
ゆるやかに続いていく関係性を
不登校の子どもたちと一緒に小説を読んでいます
aini schoolで授業を持たせてもらって1年以上が経過しました。僕は、学校以外で学ぶ子どもたちとオンラインで小説を読む授業を行っています。物語を通じて、自分の人生をメタ的に捉え直すきっかけになればいい。また、ふとしたときの判断に活きる知恵が身についたらいいなと思い、選んだ授業スタイルです。オンライン開催というよりは、お笑い劇場のライブかと思わされるくらいウケます。ありがたい。子どもたちには、実は深いメッセージがあることなんて、後からじんわり伝わればいいから、とにかくお話を楽しんでほしいと思っているので、個人的には満足しています。
現状で満足している点は2点。1点目は「言葉の品」です。授業を始めた当初は、笑いが取れればなんでもいいくらいでやっていた側面も、正直ありました。反省しています。しかし今は、内輪ネタを極力避け、平易なワードでの言葉のキャッチボールができるようになりました。節度あるボケとツッコミで、お話の世界観も壊さず、かといって面白さも損なわないコメントがチャット欄に流れるようになりました。2点目は「物語の理解度」です。物語の利点のひとつに、なぜか頭に残りやすいという特徴があります。エピソード記憶という言葉の通り、まあ子どもたちはよく内容を覚えていてくれるんですよ。同じ作家の話を紹介した暁には、コメントには以前紹介した作品のパロディでコメントをしてくれる子が複数名現れます。覚えてくれていることを実感できる、幸せなひとときです。
今年、紹介して反応が良かったと思う作品は、芥川龍之介『魔術』・星新一『ネコ』『みらいそっぷ——アリとキリギリス』・O.ヘンリー『最後の一葉』『魔女のパン』・宮沢賢治『ツェねずみ』『猫の事務所』あたりですかね。さりげない日常に隠れている人間心理を具現化した内容が共通点かなあと思いますね。
文学部に行って心が救われた僕だからこそ、小説の面白さ、人と言葉のラリーを交わすことの楽しさ、そして何より「いざという時の判断を支えるさりげない知見を提供する時間」をプレゼントしてあげたいなと思います。
よく遊び、よく交換日記
塾の子どもたちとは、本当によく遊びましたね。毎週水曜日には、近くの大きな公園にドッジボールをしに行きました。他にも授業の合間や終わりに、大喜利・大富豪・ラップバトル・ボードゲーム、そして他愛もないトークなど、たくさんの時間を共有しました。
僕は休みの日に友だちとご飯行くのが好きで、休日の楽しみに向けて爆発的に仕事ができるタイプなので、個人的には遊びを設定することで、集中力を高めるという施策は肯定的に捉えています。締切を設定して、守れていない人を恐怖で支配するというよりは、みんなで楽しいことをするために、いま各々のやるべきことをやろうという積極的な締切というイメージですかね。内容にもよりますが、遊びって創造性や協調性を育んでくれる側面もありますしね。遊びを肯定しすぎかな(笑)
僕と話すことを特に好んでくれている子たちとは、交換日記も書いています。大学院時代もちょっと頭がおかしいくらい「普段からの何気ない会話の量がだんだんと認識をつくっていくから、できるだけ対等な関係を目指して、楽しく話すことが大切なんだ」みたいなことを熱弁していたので、交換日記はこの願いにうってつけの方法ですよね。取り組んでくれるのは圧倒的に女の子が多いのですが、普段、何にハマっていて、何に違和感を覚えているかなどがありありと伝わってくる。僕も、先生という立場からではなく、ひとりの人間としてガンガン思ったことを書いています。
塾ではありつつも、勉強も遊びも交換日記も、等しく言葉の交換であり、人間性の共有であるという関係性が、現代的で教育的でおもしろいなあと思っています。
進路相談に来る卒業生たち
進路相談に来てくれる卒業生が異様に多いのも特徴ですね。個人的にガチで嬉しいことのひとつですね。上述したように、資本主義の要求を受けて進学塾にしているものの、本質的には「自分にとっての善い生き方を考えてほしい」というのが僕の教育を志した根幹にあるものなので、生き方を相談しに来てくれることほど嬉しいことはありません。
大学附属高校をターゲットにしている塾なので、基本的には学部選びの相談が多いですね。学部選びと言っても、過去の自分の特性と興味関心を、未来に在りたい社会や自分像と接続していく行為なので、平易な言葉を使えばキャリア教育的な側面が強いのかな。とにかくね、楽しいんですよ。中学時代の彼らがどのようなことに悩んでいたかも散々聞いてきて、学問としてもどのような考え方が得意なのかもざっくりは知っているという状況で、ガラっと環境を変えて何を経験し、どのように感じてきたかを聴くことが。頭が良いだけではなくて、思慮深い人になってほしいなというのも自分のひとつの願いなので、常に様々なことを内省しながら、自分にとってベターな環境をデザインし続けてほしいですね。
ゆる~く続いていって、悩む場面では相談できるような関係。自分にとっての理想の教育像のひとつだと、嬉しさを噛みしめる日々です。
市井のアート
芸術家ではない僕らこそ、アートしよう
顔を知る人のアート作品を観ることが好きです。別に有名なアーティストの綺麗な作品じゃなくていい。「あの人は、あの日、どのような内面性を表現してしまったのだろうか」と思いを馳せる想像性の余白が、僕にとってのアートの楽しみです。
アルコールインクアートを始めた理由は、言葉で上手く表現できない子どもたちとの心の結節点になるかもしれないという期待でした。技術は関係ない。自分の趣向が表現されるだけの抽象画。そこに、上手い・下手といった評価は介在しない。周りの視線から解放され、思い切り感性を表現できるのではないかという予感が、僕のことをインクアート大好き人間にしてくれました。
2026/3/1(日)は、高津アートデイズというイベントで、インクアートのワークショップをします。「アートでまちをつなぐ輪」を広げたいという主催の奈苗さんの考えに強く共感したからです。
インクアートは、液体が自分の意図せぬ方向へ伸びていき、まともにコントロールができません。いや、コントロールしようとしない方がいいです。自分が思いもしなかった色や形がつくられていく。目的からの逆算ではなく、過程への受容。成長や効率を求めて来る社会的な潮流とはまるで違う思考の方法を、インクアートを通じて体験してほしいです。
というわけで、来年は溝の口駅で、インクアートします。塾の方に注力してしまっているので、受験が近づく秋以降、アートイベントはなかなか開けていないのですが、春になってまたアートで仕事が出来るのも楽しみでしょうがないです。当日お会いできる14名のみなさんが、どのような感性を表現するのか、今からワクワクしています。

ゆっくり考え、ゆるやかにつながる
ゆったり考えるための読書会
月に2回ほど、友人と読書会をしています。2024年度は浅田彰さんの『構造と力——記号論を超えて』を1年間かけて読みました。2025年度は東浩紀さんの『存在論的、郵便的——ジャック・デリダについて』をゆっっくり読み進めています。また、今年の12月には、人文書が好きな方々と、随筆を書いて共有するというエッセイ会を開催しました。
平野啓一郎さんは『文学は何の役に立つのか』の中で、文学は「今の世の中で正気を保つため」に役立つと書かれていますが、僕も少なくとも2週間に1度は自分の進む道が大きく見て逸れていないかを確認したい願望があるんだろうなと思います。
様々なコミュニティで、多様な人たちと会う機会がありますが、読書会・エッセイ会のことも書いたのは、自分が魅力に感じる「思考を丁寧に振り返ろうとするゆったりとした生き方を体現しようとしている人たち」の存在を可視化したかったからです。
バンドメンバーと週報とそれから許し
今年は、音楽を始めた年でもありますね。高校時代の同級生と4人のバンドを組んでいます。音楽的なことも報告したいところではありますが、僕が彼らと関わるうえで面白いなと思っている部分は週報の存在です。
4人のLINEグループでは、毎週日曜日に⑴音楽関連と⑵自由記述の2つを書き合っています。音楽の練習だけをしていると、正直ケンカするんじゃないかと思うくらい各人の進度はバラバラで……。いや、レベルとかは関係ないし、そういうことを表面化させる人たちではないのですが、僕は直感的にそういった危険性すら感じていたんですよ。特に、バンドをやり始めてから1年が経とうとしている秋頃から。
見えないガラス板を取り払ってくれたのは、週報の「自由記述欄」でした。どうしてもブラック労働をしなくてはならない時期、資格の取得にガチっている時期、社会人ならではなのでしょうが、みんな状況がバラバラ。そして、配慮し合える大人の集団ですから、そのことで音楽に向き合えていないことを申し訳なく思っていたり、自分にとってベターな練習方法を模索している様相が毎週送られてきます。
人は、対話によって許し合えるのだなと思えるくらいに、なんだか関係性がよくなったように思います。残りのみんながどう思っているかを聴くことは、まだ出来ていないのですが、少なくとも僕は強く実感しましたね。
結婚式の2次会で司会をしました
類は友を呼ぶから、面白い生き方を続けたい
人の前でマイクを持つ瞬間、全身から湧き立つ高揚感に包まれます。小学校の集会委員の頃から、司会をやることが大好きなんです。僕の特性をよく知る小中学校時代の友人が、僕に結婚式の2次会の司会をまかせてくれました。大人がやっても楽しめるゲームを探し、構成にも凝って迎えた本番当日は、自分で言うのもどうかと思うけれど、盛り上がったんじゃないかなあと思います。
個人的に面白かったのはココからで、僕に司会を任せてくれた友人というのが、教員友達なんです。正確に言うと、小中学時代は、サッカーも一緒にやっていた仲良しだったものの、教員になるとは知らなかったんですよね。でも、やっぱり自分と長く関わってくれている友人だけあって、明るくてみんなのために何が出来るのかを考えている人だからこそ、職業に教員を選んだんだと思います。そして、その彼のパートナーも教員。すると、結婚式に招かれる人たちも教員が多い。かくして、教員友達の輪が広がっていきました。んまあ、僕も教育、大好きなんで、「教員仲間」という括りに置いてほしいなと思います……。
そうして出会った仲間は、まあ話が合うんですよね。結婚したふたりの家に遊びに行くイベントも数回やりましたし。教育業界にいることもあり、みんな何かしらの共通するものはあるのですが、笑っちゃうのはほとんど自分なんじゃないかと思えるくらい価値観が似ている友人に出会えたことですね。学芸大に進学したのに、公立教員にならないし、変わり者だと言われて喜んでいるし、哲学書読むくせにお笑い好き。なんか、自分は自分のままでいいんじゃないかと思えましたね。
自分の思う素敵さをかき集めて生きていけば、なんだか似ている人に会える。学校を卒業した後であっても、いつでも。だから、これからも最高に面白い生き方を続けていこうと思いました。最高の出会いに感謝。
近景に応答しつつ、遠景を手放さない
自分の中に常にある矛盾が、浮彫になる1年で面白かったなと思っています。中高時代の「みんなにウケる自分が居よう」と思いすぎていたがゆえに、生きづらかった自分を解放してくれたものは、文学と行動力の2点であり、その両者を極めたいと思って大学院へと進学した。ところが、ビジネスの枠組みから物事を考えた方が良い資本主義社会では、教育的な理想像だけを追うわけにもいかず、上述したようなWEBマーケティングみたいなものにのめり込んでしまう。でも、何気ない日常の幸せ、言葉が創り出す幸福への関心も譲れない。
いつだかの振り返りにも書きましたが、矛盾を矛盾のままに引き受けること、あるいは矛盾ではないと思えるレベルで捉え直すことができると、僕は信じます。近景では、この社会に応答しながら生きることを選んでいる。でも、より善い社会を願う大人のみなさんや、これからを生きる子どもたちと、未来をどうつくるかという話をするとき、僕は幸せな気持ちになるのです。人文的なこと、善いことにも資本が回る社会を目指すという遠景を描きながら、生きていきたいですね。
振り返ってみると、今年の僕はずっと「面白さの発生条件」を探していたのだと思います。雪合戦も、授業も、交換日記も、読書会も、アートも、週報も。どれも、誰かと関わりながら「面白さが立ち上がる瞬間」を見逃さないための試みでした。
仕事は生活を支える一方で、「好き」を歪める。だから、公共性と資本主義は喧嘩させず、分けて持つ。言葉で関係を続ける。関わりの中で面白さを生成する。来年も、近景に応答しつつ遠景を手放さないまま、もう少しだけ丁寧に生きてみます。今年もありがとうございました。


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