【小中学生向け】選べない人生を選ぶために

やらされていると感じるとき、人間はつまらなさを感じるらしい。心理学的に明らかになっていることだ。一方で、自分から選んでものごとに取り組んでいると感じるとき、人間はやりがいを感じるという。後者の状態を主体的な状態。あるいは、主体性があると言う。やりがいを感じて楽しく生きていたい。では、主体的に生きるにはどうすれば良いのだろうか。

メルロ・ポンティという哲学者は、人間の意識において、主体と客体を捉えなおすことが可能であることを、ごく身近な事例を用いて主張している。いま、自分の右手と左手を組んでほしい。あなたは、どちらの手でどちらの手を感じているだろうか。右手で左手を感じているか。あるいは、左手で右手を感じているか。今度はそのまま、いま自分が感じている認識を変えてみてほしい。つまり、右手で左手を感じている人は、左手で右手を感じてみるということだ。逆手の場合も同様である。右手と左手の意識を変更することは、可能だっただろうか。

この事例は、何を指し示していたのだろう。意識の柔軟さを表すこの事例は、人間が意識によって主体と客体の捉え方を変えることを示唆している。換言するならば、やらされていると感じること(客体的に物事を認識すること)も、自分からやっている(主体的に物事を認識すること)に、変えられるということだ。

サルトルという哲学者は、人間の意識の自由さについて、人間と道具を比較しながら示唆深い指摘をする。まず、道具には目的があるという。身近な道具を挙げよう。ハサミとホチキスでどうだろうか。ハサミは、何のために存在するか。物を切るためだろう。では、ホチキスはどうか。紙などを留めるためと思い浮かぶ。このように、道具には作られた目的が存在するという。試しに、自分でも道具を一つ挙げて、目的が何かを考えてみてほしい。一方、人間はどうだろうか。人間の目的は何だろうか。考えてみてほしい。

人間には、唯一絶対の目的はない。サルトルは、人間が本質的に自由であることを語る。道具のように、唯一絶対の目的が存在しないからこそ、人間は自由に目的を設定できるのだ。「お金持ちになる」が人生の目的でも良い。「楽に生きる」が人生の目的でも良い。「人のために生きる」でも、「幸せになる」でも良い。人間が自由に目的を定めることを、止めることはできない。

人生の目的は何か。人生の目的を抱いているか。サルトルは続けて、目的を自由に定められるということは、人間の喜びも辛さも同時に生んでいるのだと主張を続ける。喜びは、目的を自由に決めるということで、主体的に物事を認識できるという側面だ。辛さは、目的を自分で決めなくて(、、、、、)()ならない(、、、、)という側面だ。この人間の特性には、矛盾的な面白さを見出せる。

ポンティの主張を振り返ると、人間は主体的な意識と客体的な意識を、自分自身で変更できると述べている。サルトルは、もっと大胆に主張を展開する。人間が主体的になれるのは、自分で目的を決められるからだと述べるのだ。しかし、自分で目的を決めるということは、同時につらいことであるとも言う。自分で決めるということは、「責任」を負わなければならないからだ。抽象のまま、話を進めよう。

人間が自分で目的を決めるということは、大変な労力を要する。しかも、目的に反したことをすると周りから責められるといった始末だ。したがって、多くの人間は、自分で目的を決めることを放棄するという。他者が定めた目的を、あたかも自分の目的に代えるという方略を取るのだ。さらに! そういう人間は、人生のつまらなさを語ったりする。当然だ。序論に書いたように、人間はやらされていると感じているとき、つまらなさを覚えるからだ。他者の目的を生きていることは、本質的に同意していない限り、つまらない。そのくせ、自分で目的を決めるという責任は取らない。人間は自分で目的を決められ、自分で選んで物事に取り組むときは、やりがいを感じられるというのに。

ここまで一丁前に理論を述べてきたが、こういうことは別に二十四歳になっても解決してはいない。未だによく悩む。なんとも恥ずかしい。大切なのは、どう折り合いをつけるかだと考えるようになった。

最後に、新しい理論を含めて三つの提案をしよう。一つは、サルトルが言うように、自分で目的を決めるのだ。いわゆる「覚悟」を決めるというやつだ。二つめは、ポンティの指摘を生かして、いま自分がやっていることを「意識の上」で主体的に捉えなおすことだ。三つめは、フロー状態になること。やっていると、止まらなくなるという理論だ。何を選び、どう組み合わせるか。人生の課題は、整理して考えたいものだ。

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この記事を書いた人

支考社 代表

門野坂翔太(かどのさか しょうた)

東京学芸大学・教育学研究科修了。教職修士(専門職)。
中学校・高等学校専修免許状(社会・地理歴史・公民)。

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