「思考は現実化する」という言葉を信じています。
小さな規模ではありますが、自分が想い描いたことを実現できているからです。
自分が望んできたことは、抽象度の高い順番に、
- 充実した人生を送っていたい
- 人のために役立つような人で在りたい
- 優しい人になりたい
- 実存していたい
- 1人1人がバラバラの答えを導き出すことを支えたい
- 教育に携わっていたい
です。
↑上記の内容に対して、実現できていることは、
- 小学生に作文を教える(中学受験)
- 1人1人と寄り添える小さな塾で働く(高校受験)
- 社会人の方に「教育学」を教える(大学編入/院試)
- フリースクールで文学の授業をする(不登校支援)
- 自分に対して考えを巡らせながらインクアートをする(成人向け)
です。
どれもこれも、自分が素敵で必要だと思っていたことばかりなので、こんなに恵まれた人生を送って良いものかと幸せを噛みしめています。
今年の1月に開かせていただいた同窓会のとき、憧れている校長先生から「いくつになっても夢は大きく」と話していただきました。
半年以上ずっと、「自分にとって大きな夢は何だろう」と考えを巡らせてきました。
その結果、ちょっと安直かもしれませんが、いま自分が携わっていることを「1人1人の考えていることを大切にしたい」というコンセプトの基に大きく広げ、1つに統合する複合文化施設をつくりたいなと思うに至りました。
規模が大きすぎて到達は困難かもしれない。
想定の何倍も小さな規模での実現かもしれない。
初期のイメージとは全く別の事業になるかもしれない。
仮に実現できても、人生のかなり後半になるかもしれない。
かまいません。
自分が魅力を感じる先にしか歩めないのが僕だし、
悩みながら現実を創っていくプロセスに価値を見出すのが僕なのだから。
夢見がちなこの思考が、いつか現実になることを祈って言葉を綴っていきます。
1Fに詰め込んだ夢
複合文化施設(仮称)はツ―フロアを想定しています。1Fは、主として成人を対象に、文化的な営みに取り組んでいただける様々な空間を構想しました。2Fは、「オルタナティブスクール」と呼ばれる、既存の義務教育を行う学校とは違ったところに主眼を置く学校をつくりたいと思っています。
以下では、まず1Fの各空間の説明をした後に、2Fのオルタナティブスクールについて考えていることを記述していきたいと思います。
コワーキングスペース&書店
中央部に広がるメインスペースは、中央に本棚を円形に配置し、周りには数種類の机を置きたいと思います。コワーキングスペースと書店が同居した空間です。
文章を書かなければいけないのにも関わらず、手が全然動かないことに悩んだ大学院時代、僕はよくコワーキングスペースに行っていました。作業するためだけのスペースですし、周りもカタカタとパソコンを叩いているので、「やるしかねえ」という雰囲気が感じられ、とても集中できます。
いくつか通ったのですが、六本木にある文喫という「本と出会うための本屋」が1番お気に入りで、僕の施設案にも大きく影響を与えています↓
文喫は、入場料を払うタイプの本屋です。本棚の周りには、たくさんの種類の席があり、みな思い思いの場所で本を読むことができます。飲み物を注文できるカウンターもあり、僕はアイスコーヒーをもらうと、2階にある長いカウンターの1席に腰掛け、ムードあるスタンドライトの電源をつけて優雅に読書をしていました。
コンセントとWi-Fiもあるので、パソコンで作業することも可能です。時間を決めて読書をしたら、その内容をパソコンにカタカタと入力していました。
また、文喫では読んだ本を購入することもできます。置かれている本も、ちょうど僕が好きな人文書が揃っているんですよ。レトロモダンな棚に置かれた少しお堅めな本たちにルンルンしながら、その高揚感を言動力に読書・作業を進めていくことができます。
長々と「文喫」の紹介をしてしまったのですが、僕も似たようなスタイルでメインスペースを開きたいなと考えています。本は読むこともできるし、購入することもできる。答えを指し示してくれる本というよりは、ゆったりと考えを巡らせてくれる本を揃えることで、思考を巡らせる優雅なひとときを過ごせる場所にしたいですね。
スタジオA(アートワークショップ・スペース)
スタジオAは、アートに触れるための場所です。僕自身が、アルコールインクアートという抽象画を描くワークショップを開いていることも、もちろん関係しているのですが、もっともっとアートに触れる時間を増やした方が良いのではないかと日々願っていることにも関連しています。
アートには、大きく分けて3つの効能があると考えています。1つ目は、「デザインセンスを磨く効果」です。こういう文章を書いたり、人に説明したりするときには、ロジックを用いて他者に納得させるための時間と手順が必要です。しかし人間には、パッと見た瞬間に、物事を捉える能力も必要不可欠です。デザインセンスとも言い換えることもできるでしょう。生活にも、人に何かを届ける説得力にも関わってくるデザインセンスを磨く効果は、アートに触れることで少しずつ磨かれてくると思います。
2つ目は、少し難しいですが、「逆算的思考から現在的思考に変える効果」です。もしかしたら、これは僕が熱心に取り組んでいるアルコールインクアートに特徴的な話かもしれません。普段生活していて、成果を求めたいと思ったら、目標を定め、そこから逆算して何をするべきかを考えます。こういう過程を経て、生産性のある物事は成り立っていくのです。逆算して物事を成り立たせるためには、論理的な営みが必要になってきます。一方、僕の好きなアートの代表であるアルコールインクアートは完成形をイメージすることが非常に困難です。思ったようにインクが伸びず、湿度によって形が変わり、インクにアルコールをかけることで色が分離し、混ざった色が別様の色をつくっていきます。偶然性が非常に高く、論理的な過程を経ることが極めて困難です。アートの作成者は常に「いま、ここ」にある状況をどうしていくかの判断のみが求められます。当然、終わりという概念もなく、どこで終結させるかも自分で決断していくことが必要になります。常に、現在のみに集中する思考にシフトすることができます。
3つ目は、「ヒーリング効果」です。多くの人たちは、やらなくてはいけないことが論理的に決定された世界の中を生きているはずです。生産性を上げる思考は、ごく一部の天才を除けば、疲労が蓄積する作業になります。忙殺される時間感覚を離れるために大切になってくるのが、別様の時間感覚を養うことです。前項の内容にも大きく重なりますが「いま、ここ」に集中するアートには、瞑想や座禅にも似たタイプのヒーリング効果が見込まれます。
以上の3つの効能を見込んでいるからこそ、定期的にアートに触れることは非常に効果的なのではないかと思います。個人的に、アートは心に潤いを与えるという意味で、人間に必要なものだと捉えています。スタジオAは、素敵なアート体験ができる場所になってほしいと思います。
スタジオB(答えのない問題に対するワークショップ)
「答えを提示するタイプ」の本と話が苦手です。具体的には、「○○すれば稼げる」という類のものです。でも、答えが確定する領域もありますよね。例えば、ビジネスマナーとかビジネスメールは、ある程度「型」が決まっています。そういった内容のワークショップはスタジオBでは扱いません。
スタジオBは、この社会で答えとされていたり、評価されたりする内容を飛び越えて、
- 自分なりの感性を発見する
- 複雑な社会現象/人間関係を考察する
ためのワークショップを開く部屋にします。
具体的に想定している内容の1つに小説&随筆の読書会があります。例えば『星の王子さま』を読んで「どこに共感したか」「自身のどのような経験がそこに共感を生んだのか」について対話していきます。
同じストーリーや内容を読んだうえで、思考を共有させることで、自分の知らない他者の世界の広がりを楽しんだり、相対化することで自己の価値観に気づいたりすることができるでしょう。
具体的に想定している内容の2つ目は、エッセイ共有会です。現状は、「テーマフリー」と「テーマ設定」バージョンの2種類を、「持ち込み会」と「即興会」の4パターンに分けて行いたいと妄想しています。
行う内容は至ってシンプルで、例えば「今年1年の振り返り」「会話の嚙み合わなさ」などのテーマに対して文章を書き、何人かでグループを作って読み合って感想を共有するというものです。高校の同級生や大学院の後輩、塾講師友だちと気まぐれで文章を書き合っては送っている経験がベースになっています。
具体的に想定している内容3つ目は、小学生の作文教室です。コレは、僕が現在やっている仕事の中で充実感が高いのでピックアップした節はあります。普段は、読書感想文コンクールはもちろん、「あなたにとって学びの意義とは何か」「あなたにとって読書の価値とは何か」というテーマに対して、自分の経験を用いて論述する方法を教えています。
後述するかもしれませんが、個人的に日本の公立小中学校は、
- 科学的な分析を学ぶ割合:60%
- 自分なりの見解を提示し共有する割合:40%
の配分で授業を組み立てていった方が良いと思っています。
僕のレベル感で出会える高学歴な友だちが「仕事はこなすもの」「人生の充実感は与えられるもの」という価値観を強く有しているように感じるからです。前者には、経済的に豊かな国にならないと「もっと社会を良くするために仕事をする」という気概のある人がますます減ってしまうことを危惧しています。後者には、人生の楽しさは見出すものではなく、与えられたコンテンツを消費するものという感覚が醸成されてしまう可能性を懸念しています。
僕の周りにいる、都会の隅で学んでいた同世代や、都会の隅で学んでいる子どもたちの憂鬱を脱却するために、作文は1つの有効な策になるのではないでしょうか。自分なりの見解を出し、いろいろな価値観の人がいることを経験することで、共同して生きることの楽しさに触れられる機会になると思うからです。
3つ目の作文フェーズへの思い入れが強くなってしまいましたが、スタジオBは以上みてきたような「答えのない問題」に対して、見解を共有させ合うようなワークショップを開く場所にしたいです。ココには、僕の想像を超えるような創造的なワークショップを開いてくれる人がファシリテーターとして入ってほしいなと願っています。
スタジオC(ふらっと立ち寄れるカウンセリングルーム)
カウンセリングや精神科という言葉に対する敷居が高いことを問題視しています。僕自身「語れる環境」によって、救われた感覚を強く持っているからです。大学時代の哲学科でのゼミ・気の置けない友人との飲み・読書会など、自由に語れる環境によって雲間に光が差し込み、自分の進路が見えていった気がします。
逆に、高校以前までは、形式的には対話をしていても「結論が決まり切っている」状態での話し合いに窮屈さを感じていました。親から投げかけれていた「集中して生産性の高い行動をしろ」「やればできるのになぜやらない」のかという言葉に苦しみ、「家では勉強ができないのだから外に出ろ」「そのために早く起きろ」と行動を決定され、親によって決められた行動ができなかったら人格的に否定されるという状況を大変遺憾に思っていました。
いまとなっては、自分の特性の理解を高め、抽象的でもいいから自分の生き方の理想を考え、それらを踏まえて中期的・長期的に進路を自分で決め、2か月に1回くらい見直すということが必要だったのかなと振り返ります。
大学時代、ほとんど毎日のように日記を書き、自分の理解を深め、哲学を学びつつ、いろんな人と話せる環境に身を置いたことで、随分と自由に自分の生き方をデザインすることができた実感があります。
また、大学・大学院・社会人時代のそれぞれのフェーズで、敢えてカウンセリングに足を運んでみたことも良い経験になりました。カウンセリングでは、カウンセラーからアドバイスをもらうことはありません。「自分が何に関心を寄せているか」「自分はどういう未来になったら理想的か」というように、常に自分(クライエント)に答えが求められます。
時期によって、自分の理想の姿は変更していくし、歳を重ねるにつれて現実的に自分のやれそうなことの解像度も上がっていきます。また「大学院生になったから1日2時間英語やろう!」とか「社会人になったから簿記の勉強やろう!!」みたいな目標を立てて、すぐに挫折するということも起こり得ます。そういう無謀な内容に修正をかけるために、時期を決めて振り返るというのは重要になってくると思うのです。
長々と書いていますが、言いたいことは「自分を振り返るために、もっと気軽に自分のことを話せる場所をつくりたい」ということに終始します。自分が安心できる場所で、情けない自分の状況や、それでも目指していきたい自分像を定期的に見直すことが必要になってくると思うんです。
現在では、悩みが深くなったり、精神的に病んだりすることによって初めてカウンセリングという手段を提供されるのが定番だと思いますが、僕はその手前の段階で、もっともっと多くの人がふらっとカウンセリングに足を運ぶことがあたりまえになってほしいと願っています。
スタジオCは、重苦しくなく、「自分の現状を整理しようかなっ」という軽やかなノリで入れるカウンセリングルームになってほしいです。
2Fに詰め込んだ夢
学校の外での学びに関わって
他のブログにも書かせていただきましたが、現在は月に数回、Ainiフリースクールで文学の授業を担当させていただいております。
初回の授業の様子を↓コチラのブログに書いたので、よかったらご覧ください。
自分で言うのもなんですが、なかなかに盛り上がるんですよ(笑) 児童小説の内容を紹介し、最後に「この文章は何を伝えているか」を考察するという授業なのですが、途中の「小説の展開を予想する時間」は特に盛り上がります!
「安心感がある」ことと「面白いから」だと自負しています。僕自身、小中学生レベルでツッコミを入れるのが上手だし、ショートコントっぽいフリに乗るのも得意です。カウンセリングの資格も取ったくらいだし、シンプルな共感もできるつもりです。よって、基本的に何を言われても「それは違うだろ」と疎外することがない、安心感のある空間を演出することができると信じています。
さて、↑コチラの内容を上述したのには理由があります。それは、2Fに構想しているオルタナティブスクールの思想に大きく関係するからです。
結論として、
「自分の物語」を自ら描く
という理念の学校を創りたいです。
以下では、「公立学校の理念」と「現代社会の要求」の乖離を考察することで、別様の理念を抱く学校の必要性を論じていきたいと思います。
自分が公立学校に感じていたこと
現状の公立小学校・中学校では、幅広い科目をバランス良く学ぶことができます。これらの教育を受けてきて、自分が感じてきたことを3点書いていこうと思います。
1:「万能な人になれそう」
僕自身、幼少期から教養のある人になりたいと思っていたようです。言語化して自覚できるようになったのは21歳の時なので、ぼんやりと思い描いていただけというのが正しい記述です。
1:「万能な人になれそう」
僕自身、幼少期から教養のある人になりたいと思っていたようです。言語化して自覚できるようになったのは21歳の時なので、ぼんやりと思い描いていただけというのが正しい記述です。
小学校のとき、もちろん科目の好き嫌いはありましたし、出来るがゆえに退屈していた科目もありましたが、それでも「何でも出来る人への漠然とした憧れ」が小学校の学びに意味を与えてくれていました。
中学校になると、受験と成績のせいで悠長に勉強を楽しむことはできなくなり、数字に追われることですっかり勉強する意味を見失ってしまいかけていたのですが、それでも心の奥底では「何でも出来る人になりたい」とは思えていた気がします……
2:「みんなで生きていきたい」
共存の精神は、自分の心に深く深く刻まれています。どんな人とも助け合いながら、みんなで楽しく生きていきたい。
小学校で集会委員をジャンケンで勝ち取り、中学校で部長や学級委員の立場を与えていただき、高校で文化祭の司会を務めさせていただき、大学時代には地元の人たちを集めて毎週日曜にサッカーをしたり、社会人になったからは同窓会を開いたりといった自分の生き様にも反映されているのではないでしょうか。
本当は誰も取り残したくない。「みんなで盛り上がりたい」という執念という言葉にも近い驚異的な信念を「美徳」として評価しれてくれたのが学校だったなと振り返ります。自分が持ち合わせていたこの精神が、社会性を大切にする思想を有している学校と呼応していたからこそ、自分にとって学校は居心地の良い場所だったのだと思います。
3:「決められたことだけをやる物足りなさ」
公立高校への進学を検討していたからでしょうか。中学3年間は、成績と受験を非常に気にする期間になりました。同時に、僕にとって勉強を一気に遠ざけるきっかけになった期間でもあります。
エピソードトークになりますが、小学生の頃、僕自身大好きだった担任の先生が3年1組全体に向かって「みんな勉強は好き?」と聞いたことがあります。周りの同級生たちが続々と「好き!」と答える中、僕は「嫌いだなあ」とつぶやいたんです。
そうしたら、40代女性の担任の先生に「え!?」と心底驚かれたことを今でもよく覚えています。たまたま席が前の方だったので、耳に入ったんでしょうね。あまり言って良いのかは分かりませんが、その先生は僕が授業中に本を読んでいても、見過ごしていてくれていたんです。幼心にも、計らいには気づくものです。
勉強ができるがゆえに、ゲーム感覚でテストの点数を叩いている人がいます。あるいは、高得点を取れることで勉強が楽しくなってくる人がいます。そういった「点数ゲーム主義」の人を、別に僕は否定していません。自分には無い感覚なので、面白いなと感心しているというのが正しい言語化だと思います。
話を小学3年生時代に戻しつつ、少しだけ話題をズラすと、僕はちょうどその頃から公文に通い始めたんです。すると、「翔太くん、出来るね」と言われるようになりました。公文の先生にも、従弟のお母さんにもです。その頃から、僕は勉強が「どうでもよくなっていった感覚」を抱いたことをよく覚えています。やれば出来る。周りよりできれば褒められる。そんな空虚なゲームなら、別にいまやらなくてもいっか。こんな感覚だったと思います。
多分、僕は勉強が好きだったんだと思います。授業中に本を読むことを良しとしてくれた小学3年生の担任は、そんな僕の勉強好きを見抜いていたんだと思います。思い返せば、幼稚園時代から通った丘の上の公園にあるログハウスに行っても、運動よりも偉人伝を好んで読んでるような子でした。
ただ、自分の主観の中で満足していた勉強の楽しさが、勉強と見なされる科目が限定され、周りとの比較によって良し悪しが決まるようになったことで、一気に虚無なものに成り下がりました。その最たるものが、受験の半分が成績で決まるからと、緊張を張り巡らせたように「成績を取る勉強」を強いられた中学の3年間だったのです。自発的な読書もなくなっていきました。
大学院の後輩が、成績についての研究をしています。学びの上手くいかなさを試行錯誤する過程も評価に入れるというものです。そういった、動機を削がない評価の在り方に模索している人がいることを知っています。また、大人となって今では「あなたの現状はココだよ」という客観的な数値を出してあげることで、むしろ進路決定の一助になることも理解しつつあります。
だけど、僕というフィルターを通すと、成績は出来る出来ないに関わらず、勉強の楽しさに気づく芽を摘む可能性があるのではないかと感じてしまいます。
現在の子どもたち/若者たちが感じていることを妄想する
自分にとって酸いも甘いもある学校ですが、今度はそんな学校で、現代の子どもたちはどのように感じているかを考察していきたいと思います。目的は、2Fに配置したいフリースクールの立ち位置を明確にするためです。
従来の学校教育に問題意識が無いならば、別に彼らが地元の学校に行けるように支援すれば良いのです。しかし、26歳になった現在の状況を俯瞰してみても、近代に成立した学校教育と、現代の価値観には大きな乖離があるのではないかと感じ、その狭間に別様の考え方を持った学校が存在しても良いのではないかと考えるに至りました。
結論として、現代の子どもたちは「学校に行くという絶対的な正解感覚を失っている」と思います。「学校に行くのはなぜ?」という深い所で見えなかった問いが、水面まで上がってきてしまった感覚です。
YouTubeが流行っている時代。転職が当たり前の時代。リモートワークが選択できる時代。ジェンダーの概念が変容する時代。
みんなで共有していたこれまでの正解は融解し、何が正解なのか誰も分からなくなっていきます。
「みんなでいるの楽しいし、学校に行ってて怒られることはないから、学校に行ってるよ」という子どもがいる一方で、
「なんか学校合わないし、学校に行くのが強制されている感じもしないし、無理して行かなくてもいっか」と感じている子どももいると思うのです。
79歳になる僕のおばあちゃんが「そんな理由で学校行かないなんて、この先どうするの!?」と激高していました。体育会系サッカー部に所属してきた僕には、おばあちゃんの言ってることはよくわかります。集団で協力しなくては成り立たない仕事に就いていたならば、祖母の意見に完全に同意することができていたと思います。集団で求められていることに有無を言わず、合わせなくてはいけないからです。
この4年間、僕はいくつか転職相談をいただきました。名の知れた企業に行っていたり、給料が高い企業に所属していたりしてもなお、仕事を変えるか否かという問いを抱く同世代に驚きを隠せません。
僕は「踏ん張りの効かない地盤になった」と分析しています。当人の問題もあるかもしれませんが、いったん環境に着目した視点での分析です。
「自分にはこの仕事しかない」「社会にある仕事は限られていて、やり方に選択肢は少ない」という硬い地盤ならば、地面からの反発をもらって走り出すことができます。
しかし「社会には無数の仕事が存在するようになった」「やり方も多様」「だからこそ自分には何ができるか自分で考えるべき」という柔らかい地盤では、力を入れて立ったり、走ったりすることが難しくなります。体力も使うので、息切れもしやすくなります。
別の喩えを出しましょう。あくまでもイメージですが、混沌した社会を見通すためには、細かな分析ではなく、敢えて比喩を用いることで、共有領域を広げることは有効な策だと考えます。
昔は、みんなが同じ山を登っていました。みんなが通るから、道も舗装されているし、集団で進む楽しさも、そこにはあったのではないでしょうか。
ところが、現代はみんながバラバラの山を登るようになりました。体力や適性の問題もあるので、誰しもが富士山を登り切ることはできない。自分に適した山を登れるというのは、都合が良いのではないか。とんでもありません。1人で彷徨う山の中は、心細く、不安がいっぱいです。すぐに心が折れそうになります。さらに、現代ならではの「情報が広がることの不幸」も存在します。
営業職で頑張ることを決意するとします。最初は誰しもが上手くいきません。スマホで営業について検索します。すると、「他の商材ならバンバン物が売れる」「同業種の別会社ならもっと給与が高い」「自分より年齢が低いのに物を売っている人がいる」「オンラインで営業しているからもっと楽に働いている」という他の山の情報が、あまりにもたくさん流れてきます。
すると「自分も山(環境)を変えれば、もっと上に登れるのではないか」と、自分に与えられた山を登ることよりも、別の山を探す努力をしてしまいます。良いとか悪いとかではなく、昔だったらこの発想自体がないのです。有無を言わさず、その山を登る以外に道はない。
しかも、ここからは通じる人にしか通じないと思いますが、ある日突然、自分が立っていた地面が盛り上がって周りの山よりも高い位置に君臨するということがあり得るのが現代です。SNSの魔法です。具体的には、アルバイトや会社では上手くいかないことをネタに、YouTubeを始めたら爆発的に人気が出る。X(旧Twitter)で、何か呟いたらバズってある日突然人気者になる。といった感じです。上にも下にも、他の山にも瞬間移動できるような4次元的な感覚があるとも言えるでしょうか。または、一発屋と呼ばれるお笑い芸人的なブレイクが、芸能界以外にも広がりつつあるとも言えるでしょうか。
かくして、子どもたち/多くの若者は迷子になりつつあります。コツコツ歩いた先に、成功や承認があるかはわからない。歩き出すために𠮟咤激励する大人はいない。立ち止まっている人の方が評価されるテクノロジーも台頭してくる。何が正解なのだろうか……
正解なき社会で「自分なりの目的」を自分で描く
公立学校:集団で生活する力を育むことを正解と捉える
現代社会:個人化した社会で正解は不在だと感じる
ここまで記述してきた内容を端的にまとめるなら、上記のようにまとめられるでしょう。
国立大学院に進学した僕は、公立学校に着目し、「集団」の捉え方を変更することに奮闘していました。「小さな物語」「ナラティヴ」という言葉を用いながら、1つの集団が多様な価値観を有することを許容しつつ、充実した日々を送る方法を考えるというものでした。
具体例を挙げましょう。いま、サッカー部が練習しています。グラウンドに集まった複数人が1つの練習メニューに取り組む光景をイメージしてください。このイメージを、各人がバラバラの練習をしている光景に変えてください。全員が集まっているにも関わらず、別々のことをしている。でも、集団としては成り立っている。
さらに別の例を挙げます。教室に40人の生徒がいます。次は、英語の授業です。旧来だったら、1人の先生が言うことを40人全員が聞く光景がイメージされます。ところが、1人1台端末の力によって、全員がバラバラの学習をしている。人によっては、紙のテキストを用いて英語の演習をしていたって良い。とにかくバラバラ。でも、集団としては成り立っている。
これらは、今まで「1つの集団で1つの行動」と思われていたことを「1つの集団で無限の行動」という捉え方に変え、具体化しているだけです。テクノロジーの進化も相まって、こういったことはすぐ実現できる環境にあるのではないかと思っています。現に、たったいまYouTubeを開いたら、サッカーや英語を教えるコンテンツで溢れていることを確認できるはずです。
別に、バラバラの練習をした後に、みんなで集まってサッカーの試合をすれば良い。個人個人で自分に必要な英語の勉強をした後に、みんなで英会話をしたって良い。徹頭徹尾、集団は1つの物事という発想ではなく、「個人的な課題」と「集団の連帯感」はグラデーションであって、流動的に成り立たせることは可能なのだと思います。
「1つの集団で無限の行動」の考え方を実践するためには、次の3つのことが必要になると思います。
1つ目:自分なりの目的を持つ意識
2つ目:自分なりの目的を立てるために手助けする他者
3つ目:目的がバラバラであることへの周囲が理解
サッカー部の例を続行するならば、顧問に練習メニューを決められる状況とは異なるため、まずは「自分にとって何が必要か」を考えるところから始まります。ベンチ外サッカー部の僕の場合なら、数多ある課題の中でも、もう少しヘディングを改善していたら、自信を持って試合に臨むことができた気がします。
脳死で練習に参加することができる子だったからこそ、「何が自分にとって必要か」という意識が芽生えないんですよね。ただ存在しているだけで、全体練習が始まる。誰が与えてくれたことに従って行動する方が楽なんですよね。自分が所属している塾での経験からも、うだうだ言いながらも僕の組んだ宿題をやっている中学生から、その事実はよくわかります。
まずは自分が何をやるべきかを考える。課題自体を明確にすることが難しいのなら、それを顧問に相談すれば良い。課題は分かるのだが、どんな練習をすれば解決するかが分からないのならば、具体的な練習メニューを顧問に相談すれば良い。1度組んだ練習メニューを何ヶ月も惰性でこなしているなら、たまに顧問が話しかけることで、目的を洗い直したり、どんな成長曲線を描くかを相談したりすれば良い。このようなスタイルが全体練習の中に組み込まれることによって、チームメイトも目的が個々人によって変わるということを当然のこととして理解することができる。
「自分なりの目的を持つ意識」「自分なりの目的を立てるために手助けする他者」「目的がバラバラであることへの周囲が理解」の3点を意識することは、授業・学級運営・部活動・委員会など多岐に渡って応用させることができる便利な理論だと、個人的には思っています。いずれにしても、地位も名誉も実績も権威もない大学院生1人が公立学校のシステムに訴えかけることはできない。当然です。
それでも、自分が練り上げた理論の有効性を見てみたい。衝動が抑えられず、結局、僕は友人と小さな個人塾を運営したり、学校に行けない子と抽象画(インクアート)を行ったり、フリースクールで文学の授業を担当したりと、がむしゃらに行動しながらある事実に気づいたのです。
「1つの集団で無限の行動」は「悩みが深い子」ほどフィットするのです。具体的な「悩みが深い子」とは、学校に合わない・家族との意見に合わない・友人関係が良好ではない・与えられた勉強が苦手という子どもたちです。
これらの子どもたちは、本セクションの最初に掲げた
現代社会:個人化した社会で正解は不在だと感じる
という思想を有している子たちなのです。塾で「どう勉強したい?」と問いかけても、自分なりの意見は薄く、こちらの提示した課題をコツコツこなすことができる子は、学校で求められることもきちんとこなせるという傾向があることに気づきました。
逆に、僕の「あなたはどうしたい?」と問いかける哲学的なスタイルを喜んでくれる子は、何かしらに悩みを抱えている子であり、学校には行かないという選択をしている子が多いのです。※あくまでも傾向であって、絶対的なものではありません。
象徴的なエピソードがあります。学校ではなくAiniフリースクールで学んでいる子たちに、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』というSF小説を紹介したときのことです。小説の内容を簡単に説明すると「みんなが同じことを考えている≒何も考えないことこそが幸せ」という価値観を有しており、本を所持していると逮捕される社会の中で、いろいろなことに悩む1人の青年がだんだんと本の魅力に気づいていき、法律を犯して抵抗するとい内容になっています。
僕は、
悩む状況の中で「自分は何を大切にするのか」「自分はどうやって生きていくのか」
そういう自分なりの物語を描きだすために、読書は大変意義深いものだ
というゴールに向かって45分の授業を進めていきました。
高度な内容の小説です。小学3年生から中学2年生が参加していましたが、小学生はおろか、最高学年の中学2年生にとっても難しい内容だったはずです。
ですが、「なんだろう。すごい伝わったな……」という確かな感慨があったのです。他方、自分の塾で中学1年生・中学2年生向けに同様の授業をした際には、理解できないこともないが、伝わったというか、浸透したという感覚はなかったんです。
これらの経験から、現代特有の思想を有しているがゆえに、公立学校の理念に合わない子どもたちには「自分の物語」を自ら描くことが有効なのではないかと考えるに至ったのです。もっと平易に言えば、悩む子は自分で目的を考えられれば、少しずつ歩み始めることができるんじゃないかということになります。
僕は哲学科出身なのですが、最初から哲学科へ進学したかったわけではありません。高校時代、家庭で話す場がないと感じており、勉学でも運動でも最下層、受験があったので友人と豊かな会話をする機会もなく、読書もできない。評価も承認も何も得られない、完全に塞ぎ込んだ状況の中で、藁にも縋る思いで到達したのが哲学という道だったのです。
結果的に、とても良かった。意味とは世間から与えられるだけではなく、自分から意味づけることもできるのだと学べたからです。もう少し正確に言うと、哲学を学びながら、バックパックで東南アジアに行ったり、M-1グランプリに出場したり、日本一の遊園地でアルバイトしたり、演劇に出演したりと、がむしゃらに行動したことが良かった。
何が自分にとって適正かを見極めたり、自分なりの満足とは何がつくってくれるのかを考えたりすることができたからです。フリースクールで求めたい「自分の物語」を自ら描くとは、座学と行動の両立の中から見出してほしい態度なのです。座学だけでは足りないと思います。また、自分よがりなだけでも足りないと思います。
安心できる/自由に考えられる場所で「自分はどうやって生きていこうか」と考えられる。小中学生にとって格好の材料になるのが、本質的な問いを投げかけてくれる文学だと思うのです。最初に文学授業の魅力を記述したのは、目に見えない自由な世界を想像する力を養うことで、「自分なりの物語」を描く力も同時に身に付くと考えたからです。無限の中から有限を設定した結晶が文学なのです。
加えて、文学的な人の共感力には凄まじいものがあると感じます。それは、本を媒介として、自分の所属する世界とは、全く別の世界を想像する力が下支えとなっているからだと、僕は分析しています。フリースクールの創設が実現してもなお、僕は文学の授業をやる人で在りたいなと思います。
上記の理由によって、現代には「自分の物語」を自分で描くという理念の学校が必要だと思うのです。自分が目的を設定する。自分がその目的に向かって進んでいく最中に意義を見出す。その都度、自分の生き方や目的を検討していく。自分の目的を自分で設定できるようになったら卒業、みたいな感覚の学校かもしれませんね。
様々な意見や批判があるかとは思いますが、正解のなさにかまけて何もしなくて良いなどとは言っていないつもりです。ただ、「何をすれば幸せだよね」という共通の感覚が薄れてしまった現代では、自分が必要だと思う学びを追求する生き方があってもいいのではないかという、僕なりの提案です。公立学校全体を貫く理論にまでする必要はないのではないかとも思っていますが、時代を考慮すると、こういう考え方が有効な子もいるだろうと思うのです。
フリースクール創設に向けて
上述した理念を批判的に捉え、現状での具体的なイメージを話し、今後の展望を話すことで、フリースクールのセクションは終了したいと思います。
まず、理念パートが長いですね(笑) いかに自分の思考がまとまっていないかを痛感させられます。もっと分かりやすい形に整理していく必要がありますね。
次に、「目的志向すぎる」点も課題でしょう。自分はすべての物事に目的を立てていたでしょうか。ぜんぜんそんなことはありません(笑) やってみる中で分かっていくこともある。最初から自分のものさしで良し悪しを決めない。そういう大らかな視点で、目的という概念を捉える必要もありそうですね。
とはいえ、ネガティブな話だけではなく、現状の具体的なイメージも共有していきます。まず、学年は大まかな枠組みだけで結構だと考えています。次に、学校でやることは大きく3つのことを想定しています。1つ目は、自己目的の設定。2つ目は、自分の目的に適う勉強。3つ目は、共同プロジェクトです。
1つ目は、やはりそもそも自分が何に向かっていくかを、メンター(大人)と話し合う時間です。贅沢な時間ですよね~。でも、ぜひこれをやりたいんです。色んな大人と話しながら、自分なりの目的像を描いていく。そういう時間から1日をスタートしたいです。
2つ目は、シンプルに勉強です。1人1台端末があることが前提となっています。というのも、先に述べた通り、情報コンテンツが飽和した現代では、様々なことがICTを通じて学べるのです。僕も、ホームページや税金のことは、インターネットを通じて得た知識です。もちろん、別に本から学んだって良い。危険な情報じゃないかだけを見極め、各人が必要だと思う学びに触れます。目的は分からないが、ひとまず変容したいと願う子には、義務教育の内容を履修してもらおうと思っています。そういう教材は、むしろたくさんあるはずですから。
3つ目の共同プロジェクトは、基本的には午後を想定しています。いくつものプロジェクトチームを走らせたいと思いますが、例えば、祭りの運営・魅力的な広告の作成・定期的なルールの見直し・自分の目的の共有、などをイメージしています。ポイントは、大人も子どもも関係なく1人の人間として関わるということと、他者と関わることで自己を見つめ直す視点を育むということです。
これらを実現するために、僕がやらなくてはいけないことは山積しています。まずは、他のフリースクールがどのように運営しているかを教えていただく必要があります。次に、経営的な視点を学ぶ必要性です。さらに、理念の明確化、協力してくれる人の募集、法律との兼ね合いなど、様々なことが必要になってくるでしょう。
何歳で達成できるでしょうか。意外と早いかもしれません。人生の最後になるかもしれません。この夢を晒すという行為自体が、様々な助言をいただくきっかけになり、夢に近づく速度が上がると信じてフリースクールセクションを書きました。次は何をすべきだろうか。僕も、その都度目的を検討していく必要があります。
おわりに
15,000文字を超える文章になりました。ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。
上述してきた内容の他にも、僕には大学院博士課程に進学して教育哲学の研究をしたいという夢もあります。でも、優先順位は複合文化施設の後かなと捉え直すに至っています。ドクター進学を遅らせる理由としてポジティブな面には、もっと現場にいたいという思いがあります。現実的な観点には、経済を追うのが先だなと思うようになったというのもあります。ネガティブな側面としては、自分はそんな頭良くないと劣等感を抱いている自己認識もあります。
僕は、行動力が高い方ではありません。
また、脳みその回転が早い方でもありません。
でも、できることもあります。応援することです。
いろいろな人から相談していただけます。人徳だと思っています。
目的に対して頑張れない人に共感し、励ます。
目的なき不安の只中を彷徨う人が見通しを持てるように、話を整理する。
とりとめもなく溢れ、形を持たない話を、ただただ聴く。
こういうことが、自分が他者に対してできることだと思います。
同時に、自分自身に対しては、学びの視点から問いを立てることで、主体的に学んでいくことができることが強みだと捉えています。
自分にできることは抽象的でちっぽけかもしれない。
でもこの力で、誰かの役に立ちたい。
昨年、起業した際の屋号には「人々の考えることを支えたい」という思いから「支考社」という名前を付けました。いま、自分の理念は全くブレていません。
規模が大きすぎて到達は困難かもしれない。
想定の何倍も小さな規模での実現かもしれない。
初期のイメージとは全く別の事業になるかもしれない。
仮に実現できても、人生のかなり後半になるかもしれない。
それでも、大きな目標を掲げさせてください。
自分で目的を立てれば、そっちに歩いていけるのが僕だから。
何よりも、「1人1人が考える」「考えることを支える」「無限の中に有限の意味を見出す」というここまで書いてきた内容が、正解感や精神的幸福感が薄れる社会にとって必要になると、僕は本気で信じているからです。
助言と応援、よろしくお願いします!
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